訪問看護ステーション新樹、山﨑孝大(やまさきたかひろ)と申します。共同代表、理学療法士をしています。昨年4月の開設から1年半以上が経ちました。
恐縮ではありますが、今日は私のことをお話させていただきます。m(__)m
幼い頃は、私は外ではっちゃけて遊ぶ子でした。3歳の時には、家の前で走り回ったり跳ねたりしていた時にバランスを崩し転び、玄関の段差の端のところに、おでこをぶつけて流血し、救急搬送されて頭を5針縫う手術を受けました。ホッピングやゴム飛び、縄跳び、ボール遊びなど何でも大好きで色んなことをして遊びました。
私は4歳の時からサッカーをしています。9歳の時には、いとこの引っ越しの手伝いに家族で行って、私はマンションの庭でサッカーをしていました。サッカーボールが転がっていったのを追いかけたとき、その先には引っ越しのトラックがとまっていて、荷台が上に上がっている状態で止まっていました。私はボールだけを見ながらそこを目掛けて走っていき、ちょうどおでこが荷台の部分にあたり、流血し、救急搬送され、また頭を5針縫う手術を受けました。2か所の傷跡は今でも残っています。サッカーでの怪我は、足首や腰、膝を痛めたりして苦痛も味わいましたが、小学生の時には100チーム以上が参加する大阪大会で2位になったりもしました。現在でもサッカーは大好きで、フットサルも続けています。
バイクも大好きです。10代20代前半の時には、3度ほど死にそうな体験をしましたが、今では景色やバイクを楽しみながらツーリングをしたりもしています。今はなかなか行けていませんが、スノーボードも好きです。綺麗な雪山の景色にはいつも魅了されます。冬の寒い時期になると行きたくなるので、また行きたいと思います。
私の心の中で、偉大な力となっている、祖父と父親の話をさせていただきます。
私の出身地である大阪府豊能郡豊能町は、能勢町と並んで、大阪の一番北にあり、大阪の北海道と呼ばれています。小さい頃はかまくらや雪だるまを作ったりして遊んだりもしました。私の住んでいる地域は、電車が通っておらず、バスは1時間に1本しか来ないほどの田舎で、とても静かなところです。
田舎暮らしをしていたのは、父親の思いがあって、父親は子供の頃は和歌山県の東牟婁郡古座川町という、串本から車で1時間ほど山道を走った所にあるとてつもなく田舎なところで暮らし、田舎が好きで、大阪で働きながらも田舎暮らしがしたいと、豊能町に住むことを決めたそうです。
私が小さい頃は、お盆、年末年始、春休み、ゴールデンウィークは決まって、何時間もかけて和歌山の田舎に家族で帰っていました。そこに住んでいた私の祖父は、静かで決して怒らず優しくていつも笑顔の絶えない、本当に温かい人でした。私はそんな祖父のことが大好きで、一緒に相撲取りをしたり、川で魚釣りをしたり、泳いだり、バーベキューをしたり、花火をしたりと、本当にいろんな思い出があります。
そんな私の大好きな祖父は、私が小学生の時にパーキンソン病になりました。少しずつ動かなくなる身体を感じながらも、祖父はずっと、前を向いていました。リハビリを頑張る姿を見て、私は子供なりに、じいちゃんの横で一緒に筋力トレーニングをしたり、外を歩くときには横で走り回って応援をしたりしました。今思えば、どこにもやりようのない複雑な気持ちもあったかもしれませんが、じいちゃんは一切悲しい顔は見せずに、笑顔でした。リハビリは本当に頑張っていたのですが、徐々に症状は進んでいきました。
私が高校と進むと、部活と勉強の忙しさもあり、じいちゃんと過ごす時間も少なくなっていきました。そして、容態はさらに悪くなり、入院するようになりました。私が大学受験を控えていた高校3年生の冬、ここ2.3日が山だと連絡が入りました。私は受験勉強がありましたが、和歌山の病院まで行きました。病室に入ると、じいちゃんは、目を開けることもなく喋ることもできなくなっていました。その時私は、じいちゃんの手を取り、じいちゃん頑張れって言いました。そしたらじいちゃんは、ニコっと笑って、私が握った手を握り返してくれました。私は大きな声で、じいちゃん頑張ってよー!と言って、上を向いて涙をこらえながら、病室をあとにして、大阪に帰りました。
じいちゃんはその数日後に、亡くなりました。その日私は、今まで流したことのないくらい、大声をあげて、いっぱい泣きました。いっぱい泣いて、落ち着いたときに、私は理学療法士になろうと決めました。病気や障害で困っている方の気持ちを第一に考えて、希望に添えるように日々の自己研鑽を怠らず、リハビリに取り組んでいます。リハビリがうまく進まずに行き詰まることもありますが、じいちゃんのことを思い出すと、初心を思い出すことができて、また頑張ろうと強い気持ちを持つことができます。
私の父は、昔からすごく頑固で、論理的な話し方で、何を相談しても、怒られているように感じていました。これくらいいいじゃないかという話でも、父は絶対に許しませんでした。4歳から始めたサッカーでは、試合や遠征の時は車で連れて行ってくれていたのですが、そこでも、いろんなことを指摘されたりしました。父は子供の頃から野球が好きだったので、「サッカーのこと知らんくせになんでそんなに言われなあかんねん。」と子供ながらに思っていました。私は、そんな父親との時間をいやだと思っていました。父は仕事で、平日は私が起きる前に家を出て、寝た後に帰ってくるので土日以外はほぼ顔を合わせませんでした。中学生、高校生の時はほとんど話していなかったと思います。大学は下宿をしたので会うこともほとんどありませんでした。そんな、どんなことでもこうと思ったら意見は曲げない、臨機応変さのない話をしてくる父が、私はずっと好きではありませんでした。父に、嫌な思いもさせてしまいました。
そして、6年前の結婚の時も、ろくに相談もせずに、自分で決めて、報告の話をしました。そのときに両親と食事をしたときに、父は私に言いました。「たかが自分で決めたことだから、お父さんは応援しようと思う。」以前はこのようなことを言う父では全くなかったので、本当にびっくりしました。さらに父は続けて、「たかが小学生の頃、平日はほとんど会うことができず、仕事で疲れて帰ってきて、土日は休みたい気持ちもあったけど、たかのサッカーを見に行くのが、本当に楽しかった。一緒にサッカーの話をしている時間は、本当に幸せな時間だった。長距離運転の時もあったけど、仕事の疲れもふっとんでいた。」と。そして父は、心から「ありがとう」と私に言いました。昔の記憶が一気に思い出されて、父親に対して抱いていた今までの感情に憤りすら感じて、目の前で、涙ながらに思い出ばなしをする父を見て、私も泣きました。
結婚式当日には、どうしても手紙が読みたいと思い、最後の挨拶の時に、両親に手紙を読みました。昔のことを思い出し、また父の想いを思い出し、私はその場でまた泣きました。両親を、大切にしていこうと、心から想った時でした。
そして今、父は私の会社経営のことを自分の事であるかのように、気にかけてくれています。「私たちの行き方、考え方」という松下幸之助社長の本を貸してくれました。ちなみに、父はパナソニックに40年勤務しています。その本の中に、創業の精神は「素直」「謙虚」「感謝報恩」という言葉があります。松下幸之助社長は、松下電器という会社を、世界で一番素直で、世界で一番謙虚で、世界で一番腰の低い会社にすると書かれています。この考え方は、日々の仕事の中でも、本当に大切にするべきことだなと感じて、実践しています。
今では、両親とも60歳を超え、身体にガタが来始めています。なかなか帰れませんが時間のある限り、実家に帰って、マッサージをしたり、たわいもない話をしたりしています。これから、もっといっぱい親孝行していきたいと思っています。
しかし結婚生活は上手くいかず、2年前に離婚をしました。今は、気持ちも落ち着いています。今思うと色々想うことがありますが、万人幸福の栞という本の中に、「人は鏡」、「人を改めさせよう、変えようとする前に、まず自らを改め、自分が変わればよい。」という言葉があって、本当にその通りだなと感じています。強く当たると強く返ってきます。過去を考えると、私の人生も今とは全く違った道になっていたかもしれないと思うこともあります。でも、過去のいろんな経験は自分の身になって自分を大きく成長させてくれているんだと、今では思えています。
いろんな想い、展望を胸に、日々の仕事に取り組み、生活を過ごしています。看護やリハビリで関わる方々、生活に困っている方々が、より良い生活を送ることができるよう、全力でサポートさせていただきたいと思っています。責任感をもって、様々な方々からのお力添えもいただきながら、日々精進していきたいと思っています。
今日は、私ごとの話を読んでいただき、誠にありがとうございました。今後も、定期的に投稿していきたいと思っています。皆さん、今後とも、何卒よろしくお願い申し上げます。
メリークリスマス!次回投稿は来年になると思います。皆さま良いお年をお迎えください!来年もどうぞよろしくお願いいたします!(^^)/